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三宿の森緑地 本文へジャンプ
                           

【緑地の由来】


2004年4月1日に開園した三宿の森緑地は、緑の少ないこの地において8,000㎡という面積を持ち、
樹齢百年に及ぶ大きな樹木と自然を大切に残すように設計された世田谷区立公園です。


1.屋敷の成立――敷根氏の時代
    

 昭和の初年、雑木林と畑が広がるこの地を屋敷にしたのは敷根氏であるとされている。今の敷地よりずっと広く土地を求めて造園に着手し、二階建ての日本家屋を着工した。家屋は出来上がって昭和51年に5階建ての研修所宿舎建設のために取り壊されるまで、戦前の典型的日本家屋の優美な姿をとどめていた。事情はつまびらかでないが、敷根氏はここに住むことなく、中村氏が後を継いで屋敷としての完成を見る。

2.屋敷の完成――中村氏の時代

 

 敷根氏から屋敷を引き継いだ中村氏は大陸方面で、日産コンツェルンを作った有名な鮎川義介氏と共同で事業を営んでいたという。当主は事業の地である朝鮮に在って、子息夫妻が三宿に居住し、今に残る樹林や十三重の塔、石灯籠、石像や、日本家屋と共に取り壊された泉水など、屋敷を作り上げた。今は2棟のマンションが建つ一段下がった土地には使用人の住む家があったから、敷地は1倍半くらいはあったであろう。同夫妻はこの地で3人の令嬢に恵まれ、テニスコートを邸内に持ち、揃って乗馬を楽しむという優雅な生活であったという。戦争はこの一家にも過酷な運命をもたらす。朝鮮の事業は烏有に帰し、子息は戦地から帰ることはなかったのである。


3.法務省施設の時代――昭和50年まで

  

   終戦後はおそらく財産税物納のため国有地となり、法務省の施設となった。日本家屋は寮として使い、住宅不足時代のため職員の官舎が数棟建てられ、後には研修に召集される全国職員のための2階建て寄宿舎が設けられたが、いずれも木造であった。
  樹木は年を経て成長し、隣接の三宿神社と
併せて高速道路からも目立つ三宿の森となっていった。なおこの時代のエピソードがある。昭和29年のいわゆる造船疑獄のとき、時の与党幹事長佐藤栄作氏が、約400米の距離にある北沢の自宅から着流し下駄履きで散歩と称して出かけ、張り込む記者の目をくらまし、ここで検察の取り調べを受けた。犬養法務大臣の指揮権発動で難を逃れた佐藤氏は、後に総理大臣となる。その後も重大事件があるたびに記者の張り込みが見られた。


4.法務省研修所大ビルディング建設反対運動

    

  昭和50年に法務省は突然近隣住民に対して大ビルディングの建設計画を発表した。手狭になった寄宿舎を建て直すと同時に敷地内に研修所自体を設けるため、8階建てのビルなどを建設するというのである。当時は2階建てまでの木造家屋しかない住宅地に巨大なビルをつくり、そのために樹木は多く伐採もしくは移植する、多くの近隣家屋に日照被害を与えるという国による環境破壊のとんでもない計画であった。

  隣接する住民だけでなく近隣の参加を得て、早速法務省三宿ビル建設反対の会を結成して、署名運動から世田谷区への請願、区議会議員への個々の陳情、果ては参議院での質問に取り上げてもらうなど懸命の運動を繰り広げた。だが当時は日照権こそ認められていたが、環境破壊についての一般の認識は今とは格段の差があったので、運動は困難を極め、法務省との協議は時に激しいものとなった。しかし熱心な運動の結果、各方面の関心と協力を得られるようになり、また法務省としても環境保全の重要性について次第に理解を示し、計画建物の規模を縮小して昭和51年春には建設反対の会との協定を結んで、5階建て建物などの建設工事に着工した。
  このときに樹木については一部移植や伐採はあるが、"等価的かつ等量的に保存する"とされたのは特記すべきであろう。建物は昭和53年に完成して、研修所の寄宿舎と若干の講義の場所として使われ、また毎年秋には司法試験の最終面接テスト会場となっていた。


5.法務省施設の完全移転と三宿の森緑地の成立
   

  法務省が研修所を浦安に新設するので、三宿からは完全移転するらしいとの噂が流れたのは、平成9年のはじめ頃であった。もうこの土地は有力な不動産会社が入手することになっていて、マンション開発になるからと期待している商店もあるというのである。噂は次第に形となり、移転は本決まりとなって、建物と敷地は平成10年3月に法務省から大蔵省へ移る、その後の用途は決まっていないと同年秋に口頭説明があった。建設反対の会のメンバーであった近隣住民は、有志の名前で昭和50-51年のいきさつや協定確認事項を記し、環境と緑、樹林を保存するため特段の配慮を要請する文書を世田谷区や法務省、大蔵省に提出した。

  片や北沢川緑道で大きな貢献をし、環境保全のトヨタ財団賞を獲得したエコアップサークル「環」のメンバーも法務省移転の情報を入手して、世田谷区で最も緑被率の低い三宿の再び得られない樹林や環境を守るべきだと立ち上がり、両者合同して三宿の緑を守る会を結成した。この残された樹林や敷地の環境的価値と、敷根、中村氏の残した石像などの文化的価値を知ってもらおうと、三宿の緑を守る会はセミナーを催して多くの人々の関心をよび、区への請願書にはわずか1週間で2千人を超える署名が集まったのである。
  平成10年10月世田谷区議会はこの請願を、願意に沿うようとの意見を付けて全会一致で採択した。それを受けて区は構想を練り、大蔵省ほかとの折衝を重ね、この法務省跡地を国から買い取って公園として整備することを正式に決定したのは平成12年12月のことであった。以来平成13年度に用地取得、14年度既設建物等の撤去、15年度公園化の工事を経て、16年4月1日に三宿の森緑地として開園の運びとなった。この間世田谷区は区民の要望を聞くべく辛抱強く打合会を持った。

  南側崖の土留め工事をやり直すために年を経た貴重な樹木が数多く移植され、せっかくの樹林がまばらになってしまったなど残念な点はあるが、出来上がった姿には三宿の緑を守る会が当初提案した構想が基本的に生かされている。会の中心メンバーであり、高齢であっても知識、実行力、人格のいずれの面からもみんなの尊敬を集めた柳田友邦氏が、完成を見ずに平成15年5月に逝去されたのは誠に残念なことであった。享年92歳、同氏の徳をたたえ、また公園の実現に関わった方々に感謝するため、近隣と会の有志で山茱茰の若木を記念植樹したのは、開園に先立つ内覧会の日、平成16年3月23日であった。この地で幼時を過ごしたかっての中村家令嬢も一人この日に来られ、感慨を深めていたことを記し、三宿の森緑地由来の紹介とする。


     



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