法務省が研修所を浦安に新設するので、三宿からは完全移転するらしいとの噂が流れたのは、平成9年のはじめ頃であった。もうこの土地は有力な不動産会社が入手することになっていて、マンション開発になるからと期待している商店もあるというのである。噂は次第に形となり、移転は本決まりとなって、建物と敷地は平成10年3月に法務省から大蔵省へ移る、その後の用途は決まっていないと同年秋に口頭説明があった。建設反対の会のメンバーであった近隣住民は、有志の名前で昭和50-51年のいきさつや協定確認事項を記し、環境と緑、樹林を保存するため特段の配慮を要請する文書を世田谷区や法務省、大蔵省に提出した。
片や北沢川緑道で大きな貢献をし、環境保全のトヨタ財団賞を獲得したエコアップサークル「環」のメンバーも法務省移転の情報を入手して、世田谷区で最も緑被率の低い三宿の再び得られない樹林や環境を守るべきだと立ち上がり、両者合同して三宿の緑を守る会を結成した。この残された樹林や敷地の環境的価値と、敷根、中村氏の残した石像などの文化的価値を知ってもらおうと、三宿の緑を守る会はセミナーを催して多くの人々の関心をよび、区への請願書にはわずか1週間で2千人を超える署名が集まったのである。
平成10年10月世田谷区議会はこの請願を、願意に沿うようとの意見を付けて全会一致で採択した。それを受けて区は構想を練り、大蔵省ほかとの折衝を重ね、この法務省跡地を国から買い取って公園として整備することを正式に決定したのは平成12年12月のことであった。以来平成13年度に用地取得、14年度既設建物等の撤去、15年度公園化の工事を経て、16年4月1日に三宿の森緑地として開園の運びとなった。この間世田谷区は区民の要望を聞くべく辛抱強く打合会を持った。
南側崖の土留め工事をやり直すために年を経た貴重な樹木が数多く移植され、せっかくの樹林がまばらになってしまったなど残念な点はあるが、出来上がった姿には三宿の緑を守る会が当初提案した構想が基本的に生かされている。会の中心メンバーであり、高齢であっても知識、実行力、人格のいずれの面からもみんなの尊敬を集めた柳田友邦氏が、完成を見ずに平成15年5月に逝去されたのは誠に残念なことであった。享年92歳、同氏の徳をたたえ、また公園の実現に関わった方々に感謝するため、近隣と会の有志で山茱茰の若木を記念植樹したのは、開園に先立つ内覧会の日、平成16年3月23日であった。この地で幼時を過ごしたかっての中村家令嬢も一人この日に来られ、感慨を深めていたことを記し、三宿の森緑地由来の紹介とする。
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